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2019年4月

旧訳と新訳

毎年夏になると、赤毛のアンシリーズを読み返す。
特に決めているわけではないのだけれど、なんとなくそういう習慣になってしまっている。
今年はどういうわけか、この時期に読みたくなりKindle版が出ていることを知り、購入してスキマ時間を見つけては読みふけっている。

私の赤毛のアンは、「赤毛のアン」〜「炉辺荘のアン」までで、そこから先のアンとギルバートの子どもたちがメインとなるところは登場人物が多すぎるので滅多に読むことがない。

毎年のことだから、新潮社の赤い背表紙の文庫本は、ボロボロで中にはすでにカバーにないものもある。
今回はKindle版が出ていることを知ったので、Kindle版で読みはじめた。

文庫版もぼろぼろすぎて買い換えようと思ったら、数年前にNHKの連続ドラマで翻訳者の村岡花子を取り上げたことがきっかけなのか、新訳版が出てしまい、なおさら古い版を捨てられなくなった。

Kindle版は表紙が一緒だったので、気づかず購入してしまったのだが、どうもこの新訳版だったようで、ちょくちょく違和感感じて、物語の世界からときどき自分が落っこちてしまうような感じを受ける。

今回の新訳版はもともとの翻訳をかなり尊重しており、それほど大きな改訂ではないのだが、ここの描写はこんなに長くなかったはず‥とか、ちょくちょく気になる。全体的にはおそらく読みやすくなったのだと思うが、でも違和感がある。


歩き慣れた道に、古い店が取り壊され新しい店が建ったような感じだ。
確かに新しい店は通りを明るくするし、本当にささいなそしてどちらかと言えば良い変化なのだけれど、でももう空気が違う。
私の馴染んだ通りではない。
私自身が別にその店に愛着があったわけでもないのだけれど、何かが違う。
そんな感じ。

すでに旧訳で読んでいたものを、新訳で読むのが苦手だ。
大体の場合、新訳というのは読みやすくなっている。
旧訳だと読みきれなかったものが新訳だったら読めたというケースは少なくない。
例えば、スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャッピー」(旧訳:「華麗なるギャッピー」)や、ジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」(旧訳:「路上」)

でも、自分が旧訳で馴染んだものは、できたら旧訳のものも残しておいてほしいなぁと思うのだ。
特に電子書籍なら、それはそう難しいことではないのではないだろうか。
村上春樹の訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は確かに読みやすいけれど、私はあのゴツゴツとした読み難い翻訳の「ライ麦畑でつかまえて」のほうが馴染んでいる。
レイモンド・チャンドラーの訳は、やっぱり清水俊二訳が好きだ。

多分、翻訳された小説に読みやすさをあまり求めていないのだ。
そこは異国の話だから、違和感があって当然、わかんないなぁ‥と思いながら手探りで読んでいく感じが私にとっての海外小説の魅力なのだと思う。

 

 


銀座と京都

少し前に京都の日本人観光客が減っているというニュースを読んだ。

静けさを求めて行く場所に、観光客が極端に増えれば、その目的に合わなくなり行かない人は増えるだろう。

私もずいぶん前から、仕事の用がない限り、行かない場所になった。

東京よりもずっと人混みで疲れるのだ。

 

東京でとにかく外国人観光客が増えたのは、おそらく銀座だろう。

平日の目抜き通りはほとんど外国人観光客だろう。

ずいぶん前に読んだ古いエッセイに、「まともな日本語に出会えるのは、百貨店だけになりつつある・・」というような内容があった。

昨日、久しぶりに用事があって銀座のデパートに行って、受付で店舗の場所を訪ねたら投げつけるような物言いに驚かされた。

今の時代、銀座のデパートの受付で重要なのは丁寧で上品な接遇マナーではなく、外国人観光客に対応できる語学ができることなんだろう。

大半の買い物はネットでできる現在、銀座に出向くのはその高級感とその高級感をさらに高める従業員の対応だった。

銀座からも足が遠のく日が近そうだ。

 


恐怖心からの学び

コーチングというのは、人の話を聴くのが仕事で、一方で顧問として営業分野とマーケティング分野のアドバイスをしている。

コーチングと顧問の仕事でかなり乖離があるように思われるようで、「なんでまた?」というような顔をされることがしばしある。

私もうまく説明ができなかった。

 

最近、私がわかったのは、私は「課題の解決好き」なのだということだ。

手法は、なんでもよくて立場もなんでもいいのだとわかってきた。

 

なんでそうなんだろう?とふと思ったときに、多分、私は「役に立たない子ども」だったのを脱したいという気持ちがあったのかな?という気がする。

手先は不器用だし、運動は全くだめ、身体も丈夫じゃなくて、さらに可愛げがないという子どもだった。

そのうえ、お出かけやら旅行といった場で、ものすごくタイミングわるく具合が悪くなったり、忘れ物をしたり・・とかそういうタイプだった。

こういうのは20歳ぐらいまで続いた。

20歳でなおったのではなく、単純に子どもを生んでそういう場面に遭遇しなくなっただけだ。

他人の課題を解決するというのは、わかりやすく相手に役立つ存在だ。そういう存在になりたかったんだと思う。

(今は、どちらかというとパズルを解くように課題を解決するのが好きになってしまっているが…)

 

私のミスで周囲を不機嫌にさせるのが怖い、苦手というのが心の根底にあるのだと思う。

さんざんガッカリされてきたので、相手の期待に応えられなかったり、自分のふるまいで他人がガッカリする顔を見るのが怖い。

スキルアップの勉強は20代からずっと長いことして、かなり熱心な方だったと思う。

一方で、キャリアアップ志向がないというのが、よくわからない・・、理解できないとよく言われた。

 

なんのことはない、積極的理由の学びではなく、恐怖心からの学びだったんだ。

フリーランスになってすごく楽なのは、誰かの期待に応えなくていいということだ。

そもそもそう高く期待されていない。

あー、派遣の仕事が好きだったのも多分同じ理由なんだな。

 

だからこそ、楽しくパズルがが解けるのだ。

 


入籍

犬の1歳の誕生日に同居人と入籍した。

 

私はアニバーサリーというものを憶えられないタイプなので、もともとどちらかの誕生日にまとめようという話になっていたのだが、双方誕生日が1月のため、犬の誕生日に合わせた。(たまたま大安でもあった)

 

入籍を急いだのは、私に子宮頸がんが見つかって手術などもあるので、というロマンチックさの欠片もないような理由のため。

歳をとると健康問題で籍を入れるというのは結構あると思う。

単なる同居人だと、そもそも緊急連絡先でもないので、どちらかが外で倒れても連絡もこないし、おそらく手術の際の輸血の承認などもできないだろう。

 

周囲への報告をどうしようかと思ったが、面倒なので離婚のときと同じようにFacebookで報告した。

いっぺんに報告しないと、なんで自分はその話を知らないのに他の友人・知人は知っているのか‥というようなことを言ってきたり、不快に思う人というのは、こんな年齢になってもいるんだな。これが。

 

個別にメッセージやらコメントやらをいただいて、なんか違和感あるなぁ、なんだろうなぁと感じた。

顧問先でチームのメンバーにお祝いの言葉をいただいて、気がついた。

「結婚=幸せ」と思い込んでいる人が多いということだ。

特に若い人に多い気がするのは、やっぱり結婚してないからなのか、結婚年数が短くまだまだ仲良しだからなのかな。

お祝いのメッセージに「幸せになれてよかったですね‥」というニュアンスを感じるのだ。

 

ということは、私はそれまで「離婚した人」だったわけだから、「不幸な人」だと思われていたのか‥とちょっとびっくりした。

うまく言えないのだが、その人の生活に「結婚」というピースが欠けていると、完璧な幸せにならない‥と、深層心理で思っているような印象を受けた。

 

昔と違って、生涯独身でも色々言われなくなって、生きやすい時代になった‥というけれど、そんなことはなくて、口に出して言わないだけで、心の中で「早く幸せになれるといいですね」などと思われているとすれば、それかえって生き辛い感じがする。

 

個人の幸せと結婚って、そんなにガッチリつながってないと、48歳にして3度目の結婚の新妻は思うんですどね。

 

 


「人間の大地」と「星の王子さま」

サン=テグジュペリの「人間の大地」を読み始めた。

以前、何かの本で登場人物が、この本を薦められているシーンを読んで、少し気になっていた本。
サン=テグジュペリの本は、「星の王子さま」しか読んだことがない。

たくさんの人に愛読される「星の王子さま」が私は少し苦手だ。

この王子様の純粋過ぎる、心がやわらかすぎる感じが、苦手なのだと思う。

ときどき、こういう人に実際に会う。
王子様ほどではないが、なんというか感受性が豊かで、私が見るとなんというかものすごくものの感じ方に無防備な人だ。

私はこういう人に会うとなんだかやっぱり居心地が悪い。
ものすごく心配になる。
こういう人たちは、ものすごく傷つきやすいし傷つき方も深い。
その分、嬉しいことも本当に嬉しいのだと思うが、そのように大きく上下に感情がぶれるのが傍から見ていてとても怖く感じる。

もうちょっと傷つかないようにガードをかためてもいいのじゃないかな
・・・と感じてしまう。

多分、自分だったら耐えられないと思うからだろう

星の王子さまには、同じようなことを感じるので、いい作品だと思うがどうも何度も読み返せないのだ。

一方、「人間の大地」サン=テグジュペリが飛行士として、デビューするところから始まるエッセイだ。
飛行士としての仕事を、自身の操縦で空を飛ぶということが書かれていて、しばらく文学作品を読むことから遠ざかっていた私には、その文章は沁み入るように美しく感じられる。

「星の王子さま」とは印象が随分違うな‥と思い、「星の王子さま」を並行して読み返してみると、今度は星の王子さまに出会うパイロットの側に立って、物語が自然に展開される。

なるほど、これまで読んでいるときは、王子さまの立場で読んでいたんだ‥ということがわかる。
パイロットの立場で、王子さまを見ると王子さまがそこにいるだけで、自分がガードしてしまったいろんなことを思い出したり、感じたりして、それはとても幸せなことのように感じるのだ。
懐かしい、忘れていた場所に戻るような感じ。

本というのは、そのときどきでいろんな読み方ができるんだなぁ‥と改めて実感。

しばらく朝風呂に入りながら、サン=テグジュペリの描く広大な空を眺めるという毎日が続きそう

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おせんたくもの

なんとなく花粉症の症状がやわらいできたので、今日は思い切ってベランダに洗濯物を干す。

 

ガスの浴室乾燥機は、乾くのが早くてお気に入りだけれど、やっぱり洗濯物はお日さまにあてたい。

タオルがふかふかに乾くよりも、バリバリになるのが好きなのだ。

 

洗濯物が干してあるベランダが好き。

ちゃんと暮らしている気がするから。

 

 

 


お花見散歩

桜を眺めながら、犬とぶらぶらと散歩する。
猿江公園


花粉がおさまってきたのか、はたまたお医者様にもらった薬が効いているのか、随分と楽になった。

今日はびっくりするほど寒いので、公園内をくるみと時々走りながらの散歩。
チューリップや花蘇芳も美しいけれど、桜のこの時期に一緒に咲くので、なかなか目を止める人が少ないかも

だんだんと調子が戻ってきて、今日はたくさん記事がアップできた。

毎月恒例の本のブログ記事。

「2019年3月の読書記録」

それから、5月末からスタートする予定の読書会の記事も作成。

「一緒に本を読みませんか?」

本日は休肝日で、静かに野菜中心のご飯を。
根菜の煮物が美味しかった。
同居人は随分とお料理が上手になった。
後は作り過ぎをどうコントロールするか?だけれど、これがなぜかこの人にはとても難しいらしい。

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元号

さすがにそろそろ動き出さないと‥。
ということで、今日はぼちぼちと片付けと仕事をゆっくりゆっくりと。
途中、ノンノン(一人娘:27歳)とくるみ(ミニチュア・シュナウザー もうすぐ1歳)とランチを食べに出掛け、そこからスカイツリーまでのんびりお散歩。

満開の桜はもちろん、ユキヤナギ、ホウキモモ、チューリップとあちこちの花を眺めながら。

そのうち、頭痛も消えて、あとは少し身体のだるさが残るだけ。

気がつけば新しい元号が発表されていた。

ノンノンのバイト先の居酒屋は、ゴールデンウィークの連休もお店を休まず開けるようだ。
10連休は派遣社員だったら、きついなぁ‥と思っていたが、サラリーマン相手の飲食店もきついよね、考えてみたら。

バイト先の店長は、前回昭和から平成に変わったときは、どこの飲み屋も休みだったけれど、今回は天皇陛下が亡くなったわけではないしなぁ‥と言っていたそうだ。

よく覚えていないが、昭和から平成への移行の大喪の礼のときは、確か私は高校三年生で、多分2月頃だったと思う。
高校3年生というのは、確か2月にはほとんど受験のため投稿することがなく、それなのに休みになってもなぁ‥と思った記憶がある。(ちなみに私は、大学受験はしたことがなく、11月には既に専門学校の受験で合格していた。おそらくこの時期かなり自堕落な生活もしくはバイト三昧の生活をしていたと思う。)

昭和天皇の具合が悪いという話辺りから、「自粛」というのはそう言えば始まった気がするんだが、それ以前にはあまり聞いたことがないような気がするのは、私が子供だったからだろうか?などとつらつらと考える。


4月がやってきた

週末は、寝たり起きたりのまま終了。

家の中の空気もなんというか、やや重たい感じ。

4月がやってきて、窓から青い空が見えるとまだ頭痛が残りつつも、気持ち的にはちょっと上がる。

今日はのんびりペースで仕事と家の片付けをすることにしようっと。


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