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旧訳と新訳

毎年夏になると、赤毛のアンシリーズを読み返す。
特に決めているわけではないのだけれど、なんとなくそういう習慣になってしまっている。
今年はどういうわけか、この時期に読みたくなりKindle版が出ていることを知り、購入してスキマ時間を見つけては読みふけっている。

私の赤毛のアンは、「赤毛のアン」〜「炉辺荘のアン」までで、そこから先のアンとギルバートの子どもたちがメインとなるところは登場人物が多すぎるので滅多に読むことがない。

毎年のことだから、新潮社の赤い背表紙の文庫本は、ボロボロで中にはすでにカバーにないものもある。
今回はKindle版が出ていることを知ったので、Kindle版で読みはじめた。

文庫版もぼろぼろすぎて買い換えようと思ったら、数年前にNHKの連続ドラマで翻訳者の村岡花子を取り上げたことがきっかけなのか、新訳版が出てしまい、なおさら古い版を捨てられなくなった。

Kindle版は表紙が一緒だったので、気づかず購入してしまったのだが、どうもこの新訳版だったようで、ちょくちょく違和感感じて、物語の世界からときどき自分が落っこちてしまうような感じを受ける。

今回の新訳版はもともとの翻訳をかなり尊重しており、それほど大きな改訂ではないのだが、ここの描写はこんなに長くなかったはず‥とか、ちょくちょく気になる。全体的にはおそらく読みやすくなったのだと思うが、でも違和感がある。


歩き慣れた道に、古い店が取り壊され新しい店が建ったような感じだ。
確かに新しい店は通りを明るくするし、本当にささいなそしてどちらかと言えば良い変化なのだけれど、でももう空気が違う。
私の馴染んだ通りではない。
私自身が別にその店に愛着があったわけでもないのだけれど、何かが違う。
そんな感じ。

すでに旧訳で読んでいたものを、新訳で読むのが苦手だ。
大体の場合、新訳というのは読みやすくなっている。
旧訳だと読みきれなかったものが新訳だったら読めたというケースは少なくない。
例えば、スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャッピー」(旧訳:「華麗なるギャッピー」)や、ジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」(旧訳:「路上」)

でも、自分が旧訳で馴染んだものは、できたら旧訳のものも残しておいてほしいなぁと思うのだ。
特に電子書籍なら、それはそう難しいことではないのではないだろうか。
村上春樹の訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は確かに読みやすいけれど、私はあのゴツゴツとした読み難い翻訳の「ライ麦畑でつかまえて」のほうが馴染んでいる。
レイモンド・チャンドラーの訳は、やっぱり清水俊二訳が好きだ。

多分、翻訳された小説に読みやすさをあまり求めていないのだ。
そこは異国の話だから、違和感があって当然、わかんないなぁ‥と思いながら手探りで読んでいく感じが私にとっての海外小説の魅力なのだと思う。

 

 


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